奈良に嫁入りしてみました

奈良に嫁入りしたたぬこの日々です。ごはんとマンガとあと不妊治療、いろいろつづってます。のろのろマイペースに。

産後のことについて

産後は赤ちゃんはNICUへ。私は血管が〜とか足の痛みが〜とかありましたが、通常通りの退院となりました。

 

☆息子の入院について

息子はNICUに入ってすぐ、保育器に入ったので、抱っこできたのは、生まれて1週間以上後でした。もちろん、授乳なんてもっともっと先。授乳できるようになったのは2週間以上後でした。それまでは鼻から胃までチューブが入ってて、そこから搾乳した母乳とミルクを入れていました。

うちの息子はもともとNICUに入る予定だったので、比較的私は落ち着いていたと思うのですが、よそのお母さんとかは生まれたらびっくりするほど小さかったり、病気があったり、あとは6ヵ月ぐらいでいきなり産気づいての早産だったり、やっぱりメンタル的には相当大変そうでした。特にNICU、GCUに入ってる赤ちゃんは些細なことで容態が変わって、昨日までは授乳できてたのに、今日からはまた保育器に戻ってとかもあったし、授乳やミルクを頑張っても、どうしても哺乳ができなくて、外れたチューブをもう1回入れられたり、NICUからGCUに来れてもまたNICUに戻っていったり…。できることがそのまま継続してできることがどれほど素晴らしいことか。

入院期間中は毎日搾乳した母乳を持って、面会時間中は割とずっと会いに行ってました。毎日体重の変化に一喜一憂する日々。

そして、退院は体重が2300gを超えることが条件でした。

息子の場合は順調に体重が増え、大体1ヵ月ちょっとで退院できました。

基本的に目安としてはもとの出産予定日あたりに退院する、ぐらいに言われました。

 

☆搾乳について

吸ってくれる子もいないので、搾るしかないのですが、これも慣れが必要で、なかなか量を搾れず…。特に私は搾乳に関しては、劣等生で必要な搾乳量をぜんっぜん搾れなかったので、助産師さんから、3時間に1回とかじゃなくて、もう1時間半に1回とかで搾って刺激して!!と指導されていました。死にそうになりながら毎日12回とか搾ってました。夜は殆ど寝てませんでした。

それでもまぁ母乳はあんまり出ず、息子はそれからの1年もがっつり混合で育ちました。混合とゆうと聞こえがいいのですが、母乳対ミルクが1:9ぐらいの割合でした。

(余談ですが、母乳が殆ど出てないおかげで断乳は大変スムーズに楽にできました)

ちなみに母乳が出ない原因が息子がNICUに入ってて吸ってもらえないから、というと言い訳がましいと思いますし、お子さんが半年以上NICUに入ってるお母さんでもたっぷり搾乳されてたりしたので、一概にそれが原因とはいえないと思います。

まぁとにかく母乳は出ませんでした。でも、特段困ったことはなかったかな。うちの義母が粉ミルク教の教祖さま(笑)だったのもあって、別に粉ミルクでだれかに怒られることもなかったし。

 

☆マタニティブルーとの闘いについて→義母との闘いについて

産後はメンタルがひび割れたガラスなので、マタニティブルーとの闘いでした。赤ちゃんの世話してないくせに、と思われるかもしれませんが、退院前は周りが赤ちゃんとお母さんがセットの母子同室の大部屋だったので、それだけでブルー。夜、保育器越しに撮影した息子の写真を見ながら泣く日々。

NICUで保育器のなかで人一倍小さい息子見るだけでもブルーなのに、その息子を見た(親じゃないのでNICUには入れない)義母から「こんなに早くに外に出さなければこんな可哀想なことにならなかったのに…。こんなに早くに外になんか出されて…可哀想可哀想」と泣かれ、余計にブルー。いや、でも私臨月まで出産しなかったら、子宮破裂して死んでましたから。義母も全然悪気はないのですが、悪意なしでうっかり口を滑らすことがよくあって、それで産後はやっぱりしんどかったですね。(余談ですが、3人産んだ義姉が産後里帰りしてるなか、義母のうっかり発言で毎回、3回ともブチ切れて、里帰り中断して帰っていってます。そして、産後半年ほど連絡つかなくなるぐらい後を引きずる…。それぐらいのうっかりやさんの義母…)

ちなみに産後2年ぐらいはこういう悪気のないしつこい発言でよく私も怒っていました。なんとかオブラートに包んで、一生懸命そういう発言がいやであることを何度か伝えましたが、伝わらず…。最終的にはしかおさんに、次にその発言を聞いたら、もう二度と会いたくないぐらいなのだという旨をブチ切れて伝え、しかおさんから義母に伝えてもらう…。そして、安定の「そんなにいやなら早く言ってくれればいいのに〜」…。何度も伝えましたえぇ何度も。

こんな私たちですが、今も円満に仲良くやっています。週に2日ぐらいは会ってます。

 

☆産後のことについて

話は戻って、退院後、マンションのエレベーターが工事中で、階段があがれず、しかおさんのご実家にお世話になりましたが、1週間経たず、私がしんどすぎて、実家の母を呼んで、母と私の二人でマンション(工事終わった)でしばらく生活してました。しかおさんは世話してくれる人のいないところでは生活できないし、うちの母がいたら、とても落ち着けないとのことで別居生活。

そんななかで病院への通院はしんどかったですが、私はまだタクシーで5分の距離だったので、マシでした。他のNICUのママさんのなかには毎日車で40分走らせて通ってはる人もいらっしゃったので。

まぁそんなこんなの産後です。忙しくてしんどすぎて殆ど記憶にない…。